道祖の神々と安曇野の民話 安曇野風だよ  道祖の神々と安曇野の民話 安曇野風だよ道祖の神々と安曇野の民話   
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民話のお蔵
      道祖神のおこりは、日本の古来からあった生産、生殖の神として、五穀豊穣・無病息災・子孫繁栄や縁結びなどを祈願し,

     また 自分達の村に悪いものが入ってくるのをさえぎる、護り神として信じまつられました。

     さらに 中国古来の道の神の思想が日本に入ってきて、日本の古代信仰と結びついて、「旅」や「道」を守ってくれる神として、

     「道祖」の文字があてられたともいいます。                                    

     安曇野の道祖神は、村の中心・道の辻・三叉路などに立てられ、最も身近な守り神として安曇野の地に数多く残っております。

     これらの道祖神は、制作された時代によって、その表情も様々で、「道祖」の文字碑だけのもの、

     仲睦ましく男女が寄りそうもの、酒をくみかわすものなど様々で、昔より現代まで安曇野の人々に、

     親しみをこめて信じまつられてきました。

 
民話のお蔵 
 デーラボッチャ  ・・・ 安曇野市 小倉
     デーラボッチャという 一人の大男がいて、東山から 西山を一跨ぎにすることができました。

  いつも 土を「もっこ」で担いで、南に 北に 東に 西に行ったり 来たりしていました。牧のあしの沢や、洗馬のあしの田、

  城山のあしの窪は、デーラボッチャの足跡に水がたまって出来たものです。

    ある日のことです。デーラボッチは、東山の神様に頼まれました。

    わたしのいる東山の方が、西山よりたいぶ低いから、西山の土を運んではもらえないだろうか。

    デーラボッチャは、西山の神様が寝ている夜のうちに、西山を削って、土を「もっこ」に入れて、なんども運びました。

  もう 「ひともっこ」という所で、夜があけて一番どりがないたので、デーラボッチャは、あわてて「もっこ」の土を落としてしまいました。

  その土は、西山の前の 「小倉の室山」になりました。その近くの しょいの山は、背おっていた土がこぼれたものです。

  東山の前の 中山は、ぞうりの土をはらった時にできたものです。岩岡のおおきな火打石は、

  デーラボッチャが火打石を、うっかり落としてしまったものです。こうして 今の大地が出来上がりました。

                                    参考図書  安曇野の昔話  デーラボッチャ  
                                                浜 野 安 則 著                     
 
よくばり作兵衛  ・・・ 池田町 中鵜 
  むかし、池田町の中鵜に、作兵衛というわかものが住んでいました。朝からばんまで、田んぼや畑に出て,ねるまもおしんで

、よく働きました。
                    

   ですから市場へ,やさいをもっていっても、ほかの家のものより、よく売れました。

   でも、作兵衛は、自分でたべるものは買ってきてたべますが、近所の人に「これたべてくんな」と、あげることは、

 いちどもありませんでした。

   村の人々は、そんな作兵衛のことを「欲作」とよんで、あいてにしませんでした。

    ある日、遠くの山おくの村からきたというおばあさんが、このあたりでは、見かけない、美しいむすめをつれて、たずねて来ました。
 
「おめさんか、『めしもくわずに、働くよめをさがしている』と、聞いたでな。

 そんなら、おらのむすめの”おと”がいいと思って、つれて来ただよ。
   

 
 なににもくわずによく働くで、ぜひ、よめさにしておくんな」と、いいました。 

   ちょうど、ひるごはんの時でしたので、さっそくためしてやろうと、作兵衛は、ごはんを山もりのように茶わんにもって

 食べてみせましたが、むすめのおとは、
気にもとめず、うらやましいかおひとつしないのです。

「おい、おとや。わりゃ、ほんとうに、くわねえでいいのかや。」と、聞いても、おら、くいたくねえだ。そんなものくえば、

 
死んでしまうだ。」と、いって、顔をそむけてしまいました。

  (こりゃ、ほんとうに、めしをくわねえだな。作兵衛は、そう思いましたので、ばあさま、いいむすめをつれて来てくれた。

 きょうから、おらのよめさんになってもらうで」と、いいました。                      

   おとは、朝はやくから、夜おそくまで、作兵衛といっしよに働きまとした。そのうえ、よく気がつき、           

 作兵衛がなにをほしがっているかまで、すばやく見ぬいてし
まいました。                        

 しかし、だんだん月日がたつにつれて、なんだか気みがわるくなってきました。(よし、ひとつ、ほんまになんにもくわねえか

 どうか見てやらずよ)
作兵衛は、ある日、「きょうは、大穴山へ、草かりに行ってくるからな。」と、

 おとにいって、山へ出かけたふりをして、そうっとかくれて、見ていました。
 

 しばらくたつとおとは、おおきななべに、あふれるくらいたくさんのごはんをにました。


  (あんなにたんとのめし、どうするだや)おどろいて見ていますと、おとは、頭の毛をかきわけ、耳までさけた大きなあなに

  どんどんごはんを、ほおりこみはじめました。                                                  

  (こりゃ、おれの食べる十日分もあるわい。なにもくわねえなんて、うそこいていた)

 作兵衛は、いきなりおとの前にとびだしていき、
「やい、おと。おめえのしたこと、みんな見てしまったが、         

 よくもいままで、だましていたな、さあ、この家から出ていけ。」と、どなりました。                  

 それでもおとは、おちついてたもので、おらのしたこと見られたのでは、出ていくのいやだわね。」と、

 目をぎょろぎょろさせてにらみました。
作兵衛はこわくなって、「おらとこは、おとがしっるように、びんぼうだ。

 たんと、ほしいといわれても、こまるが、一つだけならなんとかするて、いってみろ。」と、いいました。 

  「それじゃあ、えんりょなしにいうがね。ふろおけを、くれておくりや。」               

 「ふろおけか。そんなもんでいいだかや。そんなら、いますぐにでも、おけやにたのんで、やるでな。」    
 

  まもなく、ひのきの新しいふろおけが、とどきました。

    「まあ、みましょや、いいふろおけじゃねえかい。ぷんぶんと、ひのきのにおいがするじ。」 

 おとが喜んでいうので、作兵衛もふろおけのそばにいってみました。

   「どうだい、この中もよくできてているに、いちど入ってみましょ。」「そうかや。おめえが、

 そんなに喜んでいうなら、へえってみるかいなあ」
と、作兵衛は中に入り、しゃがんでみました。

 ひのきのにおいがして、手でさわったかんじは、なんともいえないものでした。

    (こんなにいいふろおけを、くれちまうなんて、もってねえなあ。」うまくだまして、

 もっとおぞいのをくれてやるかな)
そんなことを考えながら、あちこちを、手でなでまわしていたときです。 

   ふたが、ばたんとしめられて、ふろおけは、ぐらりと動いてもちあがりました。

 おとが、ふろおけをしょって、走りだしたのです。

    「おい、こら!。おろせや。どこへ行くだや。おとや、おと・・・・。」

    作兵衛が、ふろおけをどんどんたたいていっても、とまるようすがありません。

 (なんとか、にげだすては、ねえもんずらか)と、思っていると、
「ああ、くたびれたぞよ。いっぷくしていかずよ。」と、

 いう声が聞こえ、どしんと、ふろおけごと、地めんにたたきつけられました。


そのひょうしに、ふろおけのふたが、少しずれました。

   作兵衛は、そのすきまから、上を見ますと、木の枝があったので、そうっとふたをずらしました。

そして、ありったけの力をだして、枝につかまりにげだすと、
木から木へとびうって、

 そばのよるぎやしょうぶのたくさんはえている沼に、にげこみました。よもぎのやぶのすきまから、

 おとの方を見て、びっくりしてしまいました。それは、みるもおそろしい赤鬼でした。

(これが、うわさに聞いていた八面大王のけらいの鬼か、よかったぞよ。

 このまんまつれていかけたら、
くわれちまうとこだったわい。)と、からだをぶるぶるふるわせました。

   「どおれ、あんまりたんと休んでいると、なかまのところへ行くのが、おくれちまうわ。さて行かず。」

  赤鬼はふろおけをしょいましたが、あんまりかるいので、ふしぎに思い、ふろおけをゆすりましたが、

 中からは、ことりとも音がきこえません。
「はて、どうしちまっただや。にげたわけでもあるめえに。」と、

 ふたをとってみますと、作兵衛はいません。「さては、にげたか。」
 

  赤鬼は、あたりをさがしましたが、よもぎやしょうぶの強いにおいのため、人間のにおいがけされてしまい、

 作兵衛を見つけ出すことができませでした。

   「ああ、たすかった。」作兵衛は、ほっとして家にかえりました。ちょうどこの日は、6月4日でした。

   作兵衛は、それからというもの、鬼にまたこられてはこまるので、玄関の入り口に、よもぎとしょうぶを、さしておいたということです。

  
                                                                筑摩野の民話より