国宝 松本城 安曇野風だよ  国宝松本城 別名 烏城 安曇野風だよ   
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♪♪ 安曇野の唄が聴こえる ♪♪ 
現存する木造づくりの数少ないお城
 五重六松本城は、別名 烏城 (外壁が黒漆塗装) とも呼ばれています.
姫路城の白鷺城に対し,松本城は、烏城と呼ばれ対照的です

 秀吉は、天下統一後、家康を関東に封じると共に、小笠原秀政、
家康配下の武将も関東へ 移しました。秀吉の有力武将石川数正が
かわって入城しました。
 
 数正は、秀吉の威光を天下に 誇示するために,松本城整備に力を つくしました。平城の経営に、強い意欲をもつ石川氏は、小笠原氏の企図した城づくりを大きく超える本格的な近世城の造営に着手しました。
 数正は間もなく没し その子康長は、父の偉業を継ぎ天守(天守・乾小天守・渡櫓)を始め、
御殿、門、櫓、
塀など主要建築物を、築造し、城下町を整備しました。

 天守の築年代は明確であませんが、文録2年から3年
(159394)が定説と,なっています。
 
  注) 烏城の呼び名につきましては、諸説あるようですが、管理人が幼いころより聞き、慣れ親しんだ。地元で
  愛せれている{烏城」の呼称はこのまま記載いたします。

 
   修理・復元(1)     

 天守閣群は、築築以来400年余を経過していますが、

 この間 小
修理は、寛永年間(1630年代)~安政5年(1858)まで
 
 に17回あり
ました。

 明治維新後の明治5年(1872)には、天守閣が売却されました が、

 
市川量造らの尽力によって買い戻されました。しかし その後

 天守は、荒廃に任せ、明治30年頃には倒壊寸前の状態でした

  明治34年小林有也らは、松本天守閣保存会を設立して 明治の

 大修理を行い、大正2年完成しました。 

 
碧空を背にそびえる天守
   高さ  床面積 総面積 
   m ㎡   ㎡
 天 守 閣 29.4  267.1  1058.65
 乾小天守  16.8  74.7  199.2
 渡    櫓  12.6  39.6  79.2
 辰巳附櫓  14.7  28.9  57.8
 月 見 櫓 11.1   71.1  74.7
 合計  445.8  1457.8 
 

    修理・復元(2)

 その後再び修理の必要が生じ、昭和25年~30年まで

 の5ヶ年をかけて、天守の解体修理を行いました。

  また54年~60年には、二の丸御殿跡の発掘調査を行い、

 ここを史跡公園として整備し、御殿の部屋割を平面標示に

 より復元しました。

 平成2年に黒門枡形の
 高麗門と袖塀を復元し、同4年には、

 太鼓門枡形の
石垣を積替えました。平成11年3月には、
 
 太鼓門
枡形
が復元されました。 

松本城歴代城主の家紋と略歴  
 石川家 家紋  1590年(天正18年)
 
   石川氏 数正 1590年に和泉国から8万石で入封
  1593年(文禄2年) 石川康長によって松本城天守の工事が始まる。 
 
  康長 1613年に大久保長安事件に連座し改易、九州佐伯へ配流
小笠原家 家紋   1613年(慶長18年)

  小笠原氏 秀政 16
  13年に信濃飯田から8万石で入封
   妻「福姫」は、家康の孫 忠真 1617年に播磨明石へ転封
 

 
戸田家 家紋  1617年(元和3年)
 

  戸田康長が入封する。田氏 康長 11617年に上野高崎から7万石で入封 
  妻「松姫」は、家康の義妹
 
   1633年(寛永10年)

 松平直政が入封し、以後月見櫓・辰巳附櫓・八千俵蔵などを建設する。 
 
堀田家 家紋   1638年(寛永15年)
 
  堀田正盛が入封する。
水野家 家紋   1642年(寛永19年)

  水野忠清が入封し、以後水野氏統治の時代に松本城下町の姿が整う。

 1649年(慶安2年) 松本領内の総検地が始まる。
 1686年(貞享3年) 全藩的な百姓一揆「加助騒」がおこる。
 1725年(享保10年) 江戸城で刃傷事件を起こし水野家は改易される
戸田家 家紋  1726年(享保11年)

 戸田光慈が入封する。

 1743年(寛保3年) 幕府領5万石を預かる。
参考 松本市ホームページ