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五重六松本城は、別名 烏城 (外壁が黒漆塗装) とも呼ばれています.
姫路城の白鷺城に対し,松本城は、烏城と呼ばれ対照的です。
秀吉は、天下統一後、家康を関東に封じると共に、小笠原秀政、
家康配下の武将も関東へ 移しました。秀吉の有力武将石川数正が
かわって入城しました。
数正は、秀吉の威光を天下に 誇示するために,松本城整備に力を つくしました。平城の経営に、強い意欲をもつ石川氏は、小笠原氏の企図した城づくりを大きく超える本格的な近世城の造営に着手しました。
数正は間もなく没し その子康長は、父の偉業を継ぎ天守(天守・乾小天守・渡櫓)を始め、
御殿、門、櫓、塀など主要建築物を、築造し、城下町を整備しました。
天守の築年代は明確であませんが、文録2年から3年(1593~94)が定説と,なっています。
注) 烏城の呼び名につきましては、諸説あるようですが、管理人が幼いころより聞き、慣れ親しんだ。地元で
愛せれている{烏城」の呼称はこのまま記載いたします。
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